無名居士の 男70代は死に時 死に支度







気の向くままのいいかげんな内容 誤字脱字御免

言葉落穂ひろい~換骨奪胎


なぜこの人のブログ記事から言葉をピックアップして
それに関する私の考え思いを書いているかというと
検索で知ったこのブログの記事に色々教えられることがあった
そこでブログ記事を追ってみようという気になった
この他にもあと二つ追っているブログがある
いずれも今はもう動いていないブログ
損なブログや掲示板に居候して
何か書くというのが私趣味といっていいのでしょうね
休止しているから誰も来ない 何を書いても文句は言われないだろう
そんな計算もしている ところがある掲示板でのこと
掲示板の主からコメント お叱りではなくご自由にということで安心した
まあめったにないがそんなこともあった
他に二つあると書いたが もう一つは良く事情が分かっているブログ
2011年にその方は無くなった私と同じ年の生まれ 学年的にはその人が
いっこ上になると思うが ブログのコメントの縁でつながった
そのお方が無くなっても残されたブログが消えるのは嫌だと引っ越しした
そして毎日コメントを書いてきた Muragonを始めるまでは
Muragonを始めてからそのコメントもおろそかになている
一服するのもいいだろう
ここで眠くなってきた
また寝て目が覚めたら続きを書こう


12/14 深夜 書きかけだったことを思い出した
今は深夜2時前 これを書いたら寝ようと思うが
ひと眠りしたあとなのでまだ眠くない
毎日回コメントを書いていたブログがあったが
このところMuragonさんに熱中しているので
そこのコメントがおろそかになっていると書いた
これまでそこのブログにべったりだったので
気分転換に浮気?するのもいいだろう
今日は書こうと思ってたが やはりまだ書いていない
どうしてもMuragonさんのチェックを優先してしまう
それはいいとして肝心のココログの記事から気になる言葉をピックアップ
それについて何か書こうというのがこの試み
魂ブログ主からなんかを学びたいという思いから始めた
題して「言葉落穂ひろい」


紹介している記事は2011年9月中秋の名月前夜ということらしい
そこで詠んだ一句
【名月の前夜も常の夜には似ず(ほととんぼ)】


芭蕉の奥の細道で詠われている句を換骨奪胎して作ったと書いてある
その元の句は
【文月や六日も常の夜には似ず】


このように様々なことを教えられる
先ず「換骨奪胎」という言葉について理解しておかなくては
およその理解では
およそ臭くの参考にしてはいるが
本来の意味から遠ざかっている・・・といった程度
確かにその意もあるが本来の意味は悪いものではなさそう
「古人の詩文の表現や発想などを基にしながら、これに創意を加えて、自分独自の作品とすること。他人の詩文、また表現や着想などをうまく取り入れて自分のものを作り出すこと。」goo辞書参考


それでは次に芭蕉の句
【文月や六日も常の夜には似ず】
を見てみる
私は読書家でもなく俳句にも全く疎い人間
言葉落穂ひろいは人様のブログを読むことで
知らない様々なことに出会うことで学ぶきっかけにしたいというもの


芭蕉のこの歌の解釈はネットの記事で様々為されているので
調べるのは容易 ありがたいことだ
まあ同じ日はないというのが世の常だから
あえて句にすることも無かろうと思うのが私などの俗物
七夕の前には何やら気持ちがざわめく
遠足の前の子供時分の事を思いだすといいいかもしれぬ
あるいは私などは台風の前夜の黒く重い雲の流れを目にすると
嬉しくて興奮してしまう この心境は怠け者にはよくわかるかも


ブログ主は芭蕉のこの句を換骨奪胎してどのような句を作ったか
【名月の前夜も常の夜には似ず(ほととんぼ)】
【文月や六日も常の夜には似ず】芭蕉


ここで私の句を作ってオチにしたいのだが
それができるくらいならこんなことはしてないだろう
ああ いいところでまた眠くなった
寝た方がいいだろう
ではまた


5時前に目が覚めた
映画も再生開始
ちなみに見ているのは
Pocketful of Miracles 1961


Muragonブログのラボさんの記事を読んだのがきっかけ


さてさてそろそろ終わりたいのだが
オチがまだ決まらない オチというのも変だが


無名居士
十二月十二分なる日常よ
大晦日変わることなし元日と
日常はただ時のみが流れゆく
きのうきょうあすにあさって境なし
変わるのは日付のみなる常なりし 



ラボさんの記事

×

非ログインユーザーとして返信する