無名居士の 男70代は死に時 死に支度







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フロイトのナルチシズム論 - 続 壺 齋 閑 話〜ブログの難しい記事に出来るだけコメントする試み


記事からの引用

フロイトは、自体愛とナルチシズムを、それぞれ自我欲動と性欲動とに関連付ける。自体愛は、生の本能ともいうべき自我欲動の現われであるのに対して、ナルチシズムは性欲動の現われなのである。性欲動は、普通なら外的な対象としてのほかの人間に向けられるものだが、それが何らかの不都合によって自分自身に向けられることがある。それは性対象の倒錯ということになる。


フロイトの言うナルチシズムは私には無い
ただ「性対象の倒錯」と言うか「性欲の倒錯」という自覚はあり
以前にも書いたが少年の時期から今まで悩み考え続けて来た問題
七十路を過ぎて自分とのある折り合いを付けたが
性欲そのものがかなり弱まったとは言え無くなったわけではないので
倒錯と言う罪悪感からはやはり逃れられないだろう


52の時にネットを始めた
女性と同居はしていたがかなり年長だったので
もうそれ以前から性的関係は無くなっていた
関係があった時期でも私の根深い「倒錯」した性欲を実行することは無かった
せいぜい行為中に軽く顔をビンタするぐらいだった
それも一度だけだから私の中では倒錯的サド願望が募るばかりだった
ネットを始める前までは性欲を満たしていたのは雑誌だったり
当時は一冊1万円するビニボンだったりAVだったりした
かなりのSM物のAVを集めては性癖への反省から処分し
また集めたりのくり返しだった
ネットを始めてからは海外のそれ系のサイトへアクセスする事で解消していた
実行したくなってスポーツ紙の広告欄でSM系を探し何度か利用した
ハード料金を払いはしてもセックスすらせずに帰った
今はヘルスと言うのか・・・そんなところに行ってもS願望を満足させられなかった
ネットで視覚的には様々な性的傾向を満足出来るがあくまて視覚だけ
最初に興味を持ったのはshemale・・・ニューハーフの世界
上は女性なのに下はれっきとしたむしろより男性の身体
そのギャップに驚きコーフンした
それからレズは昔から興味があった
女性の体は美としか言いようがない
美と美が絡み合うのだから男女のそれより美しいしコーフンする
男女の絡みにある種の拒否感と言うか醜態感と言うものが私にはあるようだ
日常生活とのあまりにもギャップを感じてしまう
性をも美化したいという妄想から来るのか…
当然ホモサイトも覗くが私には向かない興味が無いとの認識を確認するだけだった
しかしある種の疑問もある
例えばレズにしても男女の絡みにしても
私が好んで観るのはボーイッシュな女性
いわゆる貧乳ペチャパイ系
この好み願望は美少年につながらないか
実際にヴィスコンティ監督の作品「ベニスに死す」の
ビョルン・アンドレセンはたまに今でも画像に出会うとドキドキするほど
昨日のことだがネット記事で知った吉沢亮
私は初めて観る顔でビョルン・アンドレセンを重ねたほどの美少年と言う印象



吉沢亮「観客が何を感じるか気になる」/映画『悪と仮面のルール』特別映像


女性に求めるボーイッシュな物が美少年的な物なら
それは潜在的には男性を求めているのではないかと言う
わたし的には受け入れがたい感情
自分が太っているせいもあり痩せ型の女性が好き
ニューハーフも痩せ型が好きなのは当然で
彼女!・・・わたし的には女性なので彼女と呼ぶが
彼女が責められる設定のAVにコーフンする
私の性的妄想でコーフンするのは
女性が女性を責めて
責めた女性を私が責めて犯すという妄想
私はかなりのフェチのようだ
食糞まで行き着いた
あくまでAVの世界だが厳然としてその世界はある
ある意味究極的の性欲快楽の世界と言えるのではないが
口に入れた物が排泄される物であり場所
キスだけでもコーフンする
口はその形態から陰部を連想させる
はたまた肛門アナルに通じている
口とアナルへの偏愛・フェチに通じないか
食糞が究極の愛にも見える
ここまで及ぶ私の連想妄想ゆえに
自分の倒錯への志向願望を妄想で抑圧しているとも言える
それは逆に発散になっているのかもしれない
だから思う
妄想で発散するしかない環境状況に感謝していると
はたまた実行する場がありながら自制してやらなかった自分
その自分に自制心を言わず語らず教えてくれたのは両親だと
両親から学んで得た良心
自分に折り合いをつけたとはじめの方で書いた
それは妄想で倒錯的加虐的制欲を発散する
解消出来ないのは仕方が無い
大いに妄想する
思う事も罪だと思っていた
その思いは解消しよう
思っても良い 妄想すれば良い
幸いにも私は貧しい
貧しいからこそ妄想する
金があれば実行しただろう
その結末は抜け出すことが出来ない快楽地獄
不幸にして貧しいのでは無く
貧しくて幸いなのだと
自信を持って言える


人との性的関係性に於いて私のそれはフロイトの言う
「性対象の倒錯」としてナルチシズムには向かわなかったが
かなり強度の加虐願望になったものの妄想の域で終始している
今こうして昔ならばけつして語らなかった事
書かなかった事をこうして晒している
老いて恥じらいを捨てたせいもあるが
わたし的には精神の勝利宣言になろうか
そんなものじゃ無いだろうが
あくまてわたし的にはである

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